ロールプレイというものについて

 ……全然タイトルと関係のないこと書きました。ていうか自分で何書いてるか理解していません。何を書きたいのかすら理解していません。ただ何となく、ふと思ったことを、思いついた順に書き連ねただけなので、読むに堪えるものではありません。以上の理由により、続きを読む必要は全くありません。そう書くと読む人間が増えるのは自己矛盾です。助けてください。



 誰かが、「我々は仮面をつけて生活をしている」と言った。本当の素顔は誰にも見せず、ただ内に秘めているのだと。では、仮面をつけた「我々」とは一体誰のことだ?
 誰かは言うだろう。「それこそが本当の我々である」と。そして、「仮面を脱ぎ捨てて接することが信頼の証である」と。
 だが。それは本当に「本当の我々」であるのだろうか。仮面を脱ぎ捨てたとき、そこに新たな仮面が無いと誰に言い切ることが出来るのか。
 おそらく、仮面を脱ぎ捨てた者にすらわからない。当然だ。自分の仮面など、自分に見えるはずがない。
 では、次の仮面は。その次の仮面は。我々は無限後退に陥る。本当の自己を見失う。
 仮面を脱ぎ捨てることを美徳とする人間は、仮面もまた自己の一部である事に気づかない。気づくことが出来ない。彼らにとって、仮面とは障害物でしかない。仮面には見向きもしない。その仮面をつけた理由すら投げ捨てる。
 一体何が残る。すべての仮面を脱ぎ去った後、そこに残るのは「本当の我々」なのか。否、そんなことはありえない。それは既に我々ではない。
 自己を俯瞰で観察すればわかる。「本当の我々」など、それこそ千にも万にも昇るほどの数が存在する。
 そも、「本当の我々」を定義するには「偽りの我々」まで定義が必要となる。全体集合Uの中に集合Aを定義すれば、自動的に¬Aが発生する。
 ならば、「偽りの我々」とは何だ。何を偽っている。何故偽っている。どう偽っている。何かを偽るには、明確な意志が必要条件となる。それこそが「本当の我々」であるはずだ。「本当の我々」は、「偽りの我々」を内包する。仮定が偽となる。
 我々とは仮面に過ぎない。それが私の解である。ここで一つ考える。はて、この解を導き出したのは果たして「本当の私」なのか「偽りの私」なのか。解は出ない。
 導き出したのが「本当の私」であるのならば、それは私にとって解となる。「偽りの私」であるならば、それは私にとってすら解でなくなる。
 矛盾する。何から求めていいのか判然としない。前提が存在しない。


 結局のところ、それが結論ではないかと私は思うのである。